さて、驚くべきは、先ほどのディナーに続くデザートです。食事の時はほとんど一言もしゃべらなかった、私の次に皿を受け取った、この家の家長がむしろの上に横たわり、私に横になれというのです。ただ横になるだけではなく、自分と同じ体勢で、と何度も姿勢を直されました。

今でいうエマージェンシー・ファースト・レスポンダーの教える「安全体位」に近い格好です。何ですか、これは?と尋ねると、家長は「オピウム。ピュア・オピウム」と言いつつ、長いキセルの片方に黒い粘土状のものを詰め、小さい方のランプで加熱しながら、吸引しました。

僕の知識では、1840年から2年間、イギリスが清国に三角貿易でアヘンを売りつけたため大戦争になったアヘン戦争くらいしか、思いつきません。その結果清国はイギリスに敗北し、たしか今の香港割譲の原因にもなったのでしたっけ。詳しくは自分で調べてください。

ケシの実のつぼみから取れる樹液を原料とした、強い麻酔作用と沈痛作用をもつ、最大級の麻薬であるという程度の知識しかありませんでした。医療用に精製したものがモルヒネ、違法薬物として生成したものがヘロインだったかな(すみません、今調べたら厳密には違うようです)と認識していました。

1980年代は、アメリカの西海岸で、1970年代に流行したヒッピーだとか、フラワーチルドレンと呼ばれる若者文化が、10年遅れて日本に入ってきた時代です。アメリカではヒッピーの師匠みたいな人がいて、様々な薬物を勧めてきましたが、どれも私の口には合いませんでした。その師匠が言うには「ヘロインと覚醒剤だけはやめとけ」ということでした。

そのヘロインの原料になる(?)オピウム。一つの国を滅ぼすほど世界史にも残るアヘン。リスキーなことこの上ないのを承知で、私は家長と交互にキセルを吸い合いました。4回から5回くらい吸った頃です。私は意識が混濁して、自分の寝室に戻れる自信がなくなってきました。

「イナフ」と言って、キセルを家長に返しました。すると家長は私の目をじっとのぞき込んで、「ユー・アー・ノット・イナフ」と言うではありませんか。私はもともと薬物の効きが悪い体質で、アルコールもいくらでも飲める、医者の薬も効きが悪い。歯医者で親知らずを抜いたときも、すぐにキシロカインが切れ、激痛の中「先生、麻酔、麻酔!」と叫ぶ始末です。局部麻酔は通常の4倍使った、と医師に言われました。

そんな私でも、もうフラフラでした。家長からキセルを受け取ると、もう一服だけ「ピュア・オピウム」を吸い、それからどうやって自分の寝床がある高床式家屋まで、無事に戻れたのか記憶がありません。どこかで聞いた話によると、19世紀のアヘン戦争の時代、アヘン窟と呼ばれる、美しいお姉さんたちが客をもてなしてくれる、魅力的な場所があったといいます。

そんなアヘン窟とは似ても似つかない、お父さんが一人相手という、ショボい体験でした。それでも寝床に入ると、床下にいるはずの鶏や牛や馬、名前も知らない様々な動物たちが、私の耳元までやってきて歌い出しました。もちろん幻視ですが、さながら「ブレーメンの音楽隊」そのものでした。

翌朝はとても気持ちよく目覚め、これから象に乗って7時間、の準備を始めました。昨日チェンセンで買ったコカコーラの1リットルペットボトルには、半分くらいコーラが残っていました。気が抜けていて生ぬるいし、どこかに捨てる場所はないものか、と探していたら、村の少年が近づいてきて、欲しそうにしていました。

生ぬるいし美味しくないよ、と言いつつ飲み残しのコーラを少年に渡すと、嬉しそうに家に帰ろうとしました。その時です。見たこともない大人の男性がどこからか現れ、少年からペットボトルを奪い取り、その場でグビグビとコーラを飲み干したのです。

私は唖然としましたが、この村がどういう権力構造になっているのかも分からないので、ただ見守るしかありませんでした。彼らには彼らなりのルールがあるのでしょう。昨夜もてなしてくれた一家はだれもいなかったので、十分な挨拶もできずに、そそくさと象に乗って無事にチェンマイに戻りました。

タイにいるうちに昨夜の「ブレーメンの音楽隊」の話を文章化しようと、プーケットに来てからもペンを執りましたが、できませんでした。あれからもう35年経ちましたが、やはり文章化できません。誰もがセックスの快感を知っているのに、それを文章化できないのと同じように。

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