筆者から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれました。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じます。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのですが、正確に言うと少し違うようです。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられます。人間の平均寿命が50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえあります。人間は長い間短命だったのです。

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しかし2500年前の孔子でさえ72歳まで生きています。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことです。つまり昔は70歳まで生きる者は「ひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのです。孔子はその希な人間の一人でした。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見えます。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではありませんが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということですから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところでしょう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのです。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではありませんが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということです。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなります。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのです。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思います。少なくとも筆者が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言いませんが、人を年齢で縛る考え方は多くはありません。

天使と悪魔に囲まれて悩む女性

そういうところも筆者が西洋文化を好きなった一因です。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている筆者にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地がよいのです。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずです。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないでしょうか。

筆者はもうとっくに還暦も過ぎてしまったオヤジーですが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男です。

それどころか、運よく古希を迎えても、さらに喜寿(77歳)を過ぎその先まで生きる喜びがあったとしても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけることでしょう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのでしょう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に筆者の発見ではありません。禅の教えの根本です。いや、分かった風を装ってはなりません。筆者のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本です。

そうしてみると、不惑を意識して悩み、不安にかられ、もがいている女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れもの、ということにもなるのですが・・

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