シリーズ「昭和」1そもそも論
「昭和について一言でまとめてもらえませんか?」。僕はあるとき、某大手マスコミの担当者から、そういう依頼を受けました。僕は椅子ごと後ろにひっくり返りそうになりました。「僕もいちおう昭和生まれなんですが、まるで記憶がなくて…」と30代前半の彼は、あっけらかんと続けました。「昭和について、1時間くらいでいいので、僕にレクチャーしてくださると助かります」
おいおい、昭和という時代が一言で表現できるわけがないじゃないか。たった1時間で、いったい昭和の何が説明できるというのか。断ろうとする僕に、その担当者の上司だという40歳過ぎの人物が現れて、だめ押しをしました。「難しいと思いますが、そこを一つよろしくお願いします。彼を筆頭に、今回のチームのほとんどは、平成しか知らない世代なんです。杉江さんが一番長く昭和を生きていらっしゃるので、語って頂くのに、まさに適任なんです」
たしかに還暦を迎えようとする僕の年齢は、若い世代が中心のマスコミ業界では、年配者なのかも知れない。昭和と平成を30年ずつ生きてきた。だけど僕の父親も母親も昭和一桁生まれであって、昭和を語るならせめてその世代の人から、話を聞く必要があるのではないか。と意見しました。しかし依頼人は首を横に振って言いました。「戦争だとか、そういう暗い話は、今回はいらないんです。今回はあくまでも明るい企画ですから」そして部屋を出て行きながら、言ってのけたのです「杉江さん自身がご存じの、オリンピックだとか万博だとか、そういう明るい戦後の昭和についてだけで結構ですから、ひとつよろしく」と。
やれやれ、と思いながら僕は担当者と二人で、会議室に向かいました。1時間じゃすまないかも知れないよ。と僕は言いました。「はい。何時間でも結構です!」と答える彼に僕は念を押しました。いいかい、歴史は続いている。その意味は分かるよね? 昭和があって平成がある。戦前があって戦後がある。切り離すことなんてできないんだ。連続して流れる歴史の延長線上に、僕たちは今、生きている。これから出くわす問題の解決も、未来へと切り拓く展望も、この流れを見つめることによってのみ可能になるんだよ。
会議室に入ると、僕はホワイトボードいっぱいに、大きな長方形を書きました。いいかい、ちなみに昭和という元号は64年まである。とてつもなく長いピリオドだ。人類史上最も長い。実際には62年と14日だが、ローマ帝国も、中国の歴代皇帝も、あらゆる歴史を全部含めても類を見ない、ダントツ一位で長くエンペラーの座にいたのがヒロヒト、昭和天皇だ。実際に会ったことはあるかい? 「ありません!」と答える彼を微笑ましく感じながら、僕は続けました。そしてこの昭和天皇のすごいところは、天皇としての生涯のうち、前半3分の1を神様として、後半3分の2を人間として過ごした、前代未聞の天皇だということなんだ。
そう言って僕は、ホワイトボードに書かれた長方形の、左から3分の1のところに大きく縦の線を引きました。昭和20年。太平洋戦争終戦。昭和21年1月1日人間宣言。この線までが昭和天皇が神様として君臨した時代。この線より右側が昭和天皇が人間として国民統合の象徴になった時代。一人で両方使い分けるなんて、ずいぶんと器用だと思わないかい? そしてこの線より左側が大日本帝国憲法の時代、右側が日本国憲法の時代。教科書で習ったと思うが、日本国憲法になって初めて、我々の国は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という3つの大原則を持つ、今の民主的な国になったとされる。
OK!と僕は言いながら、ホワイトボードの左側に書かれた「大日本帝国憲法」「神」と書かれたスペースに、大きくバッテンを付けました。もちろん今回の依頼は、戦前、戦中については省略してくれというものだから、それは僕だって承諾している。だからこの左部分、昭和20年までについては、あえてこれ以上語らない。そんなに昔ではない。僕の父や母が子供の頃の話だ。僕たちの身近に、その時代があったと言うことだけ、しっかり知っておいてもらえばいい。あとは自分で調べてくれるかな。「はい、調べます!」と返事をする彼に、僕は続けました。一言で言えばカルトだった。世界を相手に日本は狂った戦争をして、コテンパンに叩きのめされた。ぺんぺん草も生えないくらいに。国が消滅してしまうくらいに。
そう言いながら僕は、ホワイトボードの左側に、「現人神」「国粋主義」「一億玉砕」と書き加えて、担当者の顔を見ました。彼がそれをノートに書き写すのを待って、僕はホワイトボードの右側に移動し、右肩上がりのグラフのような線を書きました。とにかく日本人は終戦後、ゼロに近い状態から立ち上がり、みるみるうちに復興をとげて、なんと世界第二位の経済大国にまで経済成長した。昭和の後半40年間は、そういう奇跡的な時代だったと言われている。おそらく君のボスが、今回のテーマにしたがっているのは、そんな昭和後期の、輝かしいイメージだろう。だから僕は今からそれについて話す。でも歴史は続いているんだ。昭和だけではなく、平成も、今も。
担当者が、今ひとつ理解していない表情をしていたので、僕は昭和天皇の話に戻すことにしました。昭和天皇は太平洋戦争において、日本人に対して神がかった権威を持っていて、彼が戦争の最高責任者であることは疑いようもない事実だ。軍部の独走が原因であるとかなんとか、いろんな説もあるし、それらはある意味正しいのだろうけれども、ヒロヒトが最大の戦犯であることを打ち消すものではない。すべての兵士や市民は、天皇ヒロヒトの名の下に戦い、天皇ヒロヒトの名の下に死に、天皇ヒロヒトの勅令で戦争をやめた。そんな最高指揮官であったヒロヒトが、なぜ処刑もされずに、人間として許され、なんの戦争責任も問われなかったのか。象徴天皇として、戦後もその地位を維持できたのか。このからくりを解明しなければ、戦後の昭和は語れない。
「昭和天皇が占領軍のGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに会いに行くとき、たった一人でマッカーサーの元を訪れ、自分はどのように処刑されてもいい、と言った。そしてその代わりに日本の国民を飢えから救って欲しい、と発言したと聞いています。」若い担当者は続けました。「そんな昭和天皇の態度に、マッカーサーは激しく感動し、この非常に紳士的な男を処刑するべきではない、とアメリカ本国に強く交渉したのだと、そういうことですよね?」自信ありげな態度でした。
僕は、やれやれ、と思いました。日本の歴史教育は、まだこのGHQ神話から成長していないのかと、ガッカリしました。僕は大きく首を横に振り、言いました。それは全くのフェアリーテイル、おとぎ話に過ぎない。考えてもみるが良い、そんな現地の一司令官の進言だけで、この戦争の最高責任者の処遇という重要な問題を、左右するわけがない。日本人の心理を分析し、戦争終結後も天皇制を存続させた方が対日政策は円滑に進む、というアイデアがアメリカで出されたのは、戦争が終結する遙か以前の昭和17年のことだ。3年も前からアメリカは、戦後は天皇制を有効活用して、日本を統治する戦略を練っていたんだ。日本の国民は天皇を崇拝し、その天皇を敬愛するアメリカもまた崇拝の対象となる。その戦略はズバリ成功したわけだ。このマッカーサー感動説というおとぎ話の構造は、戦後の、いわば新しい神話となって多くの日本人の心に刻み込まれた。君がそうであるようにね。
昭和27年、と言って僕は年表の真ん中あたりに線を入れ、年号を書きました。「1952年、サンフランシスコ講和条約ですね」さすが高学歴らしく、担当者の口からはスムースに言葉が出ました。そう、戦争が終わって7年間は占領軍のGHQの支配の元にあって、日本はまだ主権を回復していなかった。日本が独立国として歩み始めたのは、昭和27年以降のことだとされている。それは間違いないのだが、この日本独立のスタートからして、実は非常にややこしい問題を抱えるはめになってしまったんだ。時代は東西冷戦構造のなか、朝鮮戦争というきな臭い状況にあった。そんな中にあってドイツのように東西分断されることもなく、アメリカ一国の支配ですんだことは、ある意味でラッキーなことだったのかも知れない。しかしその代償として、アメリカに永年に渡る不平等な条約を結ばされたことは、あまりにも大きい代償だったのだ。
サンフランシスコ講和条約と同時に結ばれた日米安保条約は、もし戦争が起こればいつでも日本全土をアメリカ軍の基地にすることができ、自衛隊を米軍の指揮権下に置くことができる、今なお続く日米地位協定のベースになった。その後何度か日米安保条約は見直されたが、政治レベルでどんな協議をしようと、事務レベル協定である日米地位協定は、脈々と現代に受け継がれている。官僚と軍人の間の実務者同士の共同会議だ。だから誰が総理大臣になろうと、沖縄を始めとする在日米軍基地は、縮小させたり撤退させたりできないし、日本の全空域はいつでもアメリカの支配下に置かれることになる。平成も終わろうとする今になっても、外交姿勢において対米従属だと政府が批判されることはしばしばあるが、この昭和の置き土産をなんとかしない限り、日米関係はどうにもならないだろう。昭和以来の不平等な日米関係を見直すには、1991年、平成3年の東西冷戦終結が千載一遇のチャンスだったと僕は考えている。独立国として世界に類を見ない隷属関係だ。
それでも昭和の日本人の多くは、何もおかしいとは感じていなかった。主権を回復した日本は、朝鮮戦争で必要になる物資の調達で、産業が急激に活性化していった。地面に降り立ったヒロヒトは、どこから見ても人畜無害なおじいちゃんであり、マッカーサー神話のおかげで英雄視さえされていた。昭和天皇は全国を行脚してその好々爺ぶりを発揮し、おりしも皇太子が美智子妃と結婚したミッチーブームにより、新しく魅力的な皇室のスタイルは、主としてテレビというメディアの先導によって、見事に昭和の日本人の心を掴んでいった。文化は、アメリカ文化がそのまま日本に流入し、日本人の憧れる生活は、アメリカの生活スタイルに近づこうとするものであった。皇室とアメリカ、この二つが絶対的に君臨する戦後の高度経済成長期に、多くの日本人は居心地の良さを感じていた。異を唱える者はほとんどいなかった。それが昭和だ。
異を唱える者もいるにはいた。60年安保、70年安保、いわゆる学生運動が熱を帯び、大学闘争を引き起こした。しかし彼らが主張した目標はソビエトのような社会主義革命であったため、社会主義革命を願ってはいない、資本主義経済を基盤とする多くの日本社会においては、異端に過ぎなかった。日米安保条約に反対する彼らは、その不平等性に気がついていたという点では、ある種の正しい見識を持っていたかも知れない。しかし彼らの求める武力革命は、どこからも受け入れられることはなく、学生運動家達の多くは、就職の段階において転向し、企業戦士となっていった。昭和史に残る大規模な反体制運動だったが、結局の所、彼らは有益な結果は何一つ残さずに終わった。
ところで今は一般公開が制限されている、皇居のほとりにある第一生命ビルの6階。行ったことはあるかい? GHQ時代のマッカーサーの執務室だが、わりと最近まで、その部屋には自由に入れた。僕は平日の昼間、空いている時を狙って、しばしばマッカーサーの執務室を訪れた。禁止はされていたが、僕はロープをまたいで執務室にあるマッカーサーの革製の椅子に深々と座り、そして様々な思いをめぐらした。彼はこの椅子に座って、どのような日本の統治を計画していたのか。彼の気持ちになりきってみることで、僕はその謎を探ろうとした。思い浮かんできたのは、日本を東アジアにおける、米軍最前線の基地として利用することが第一であった。そしてその国は、二度とアメリカに対立することのない、おとなしくて勤勉な理想的民主主義国家でなければならない。彼の統治計画は、象徴天皇制と新しい日本国憲法、そして日米安全保障条約によって、具体的な絵が描かれていったのに違いない。そう確信した。
菊と星条旗を押し抱く、あらたな国体のあり方は、実にスムースに日本人のメンタリティーに馴染んでいった。あるいは戦前の神国日本という国体のあり方から、シームレスに繋がっていたかもしれない。絶対的なお上がいて、庶民はお上に逆らうことなく、お上の指示通り勤勉に働くことによって、経済的発展のみに活路を見いだしていた。新しいお上は大日本帝国軍ではなくて、アメリカ合衆国に入れ替わっていた。アメリカは最大の貿易相手国であり、良いお客さんでもあった。言われるままに武器と多額の米国債を買い取り、日本とアメリカとの相互依存関係は、揺るぎないものとなっていった。日本はアメリカに大量の自動車を売り、その膨大な貿易黒字は、日本の経済力を全体的に押し上げた。カメラや腕時計などの精密機械も、電器製品も、あらゆる日本製品が世界を席巻した。まさに日本は世界の工場となった。株価と東京の地価は高騰し、東京23区の土地を合計した値段で、アメリカ全土が買えるという、異常なまでに経済が沸騰した。ご存じ昭和のバブルと言われる時代だ。
やがて世界では東西冷戦が終わり、日本ではバブルがはじけて、平成の時代がやってくる。新しい皇室が国民のアイドルとして、その心を掴んでいることは変わらなかった。しかしアメリカはもはや絶対的存在ではいられなくなっていた。東西冷戦が終わった後に、沖縄の米軍基地がまだ必要なのか、その立場が問われ始める。日米貿易摩擦の問題も顕在化するようになって、台頭してきた中国、ロシア、ユーロ圏を睨みつつ、アメリカとの距離のとり方が頻繁に話題に上るようになる。おっと、これは平成以降、今に至る話だったね。今はとりあえず、あなた方が求めている、昭和後期の輝かしい高度経済成長期の話だった。それについての話に戻ることにしよう。
(続編につづく)
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