日本の官僚は「内閣人事局」で骨抜きにされた

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これまで日本の経済成長から福祉まで様々な行政サービスを支えてきたのは、日本の優秀な頭脳を揃えた、勤勉で実直な官僚テクノクラートだちだった。それは戦後から今日までかわらず、世界でも珍しい日本独自の構造であったと言えるでしょう。官僚テクノクラートとは財務省から経済産業省、法務省、厚生労働省、文部科学省、農林水産省、外務省、国土交通省、警察庁など私たち国民のために全力を尽くして指針を策定し、行政の実務を行っている国家公務員たちの幹部のことです。

たいていは東京大学法学部などを卒業し、難関の国家公務員試験を突破した頭脳明晰な若者たちが、日本国民のために尽くすといった高い志を持って入局します。それぞれの省庁に配属され、各分野のスペシャリストとして専門知識を習得し、実地経験を積んでいきます。「自分たちは日本という船を率いる船頭だ」という自覚が、高くはない給料にもかかわらず残業をいとわず職務に没頭する動機になっています。

実際に日本の高度成長時代には大蔵省の官僚指導のもと、財界が一致団結して経済を向上させる護送船団方式で、世界第二位の経済大国に押し上げました。また厚生省の官僚指導のもと、国民皆保険制度を充実させ、誰もが医者にかかれるよう福祉を充実させてきました。これらは何より優秀な官僚たちが高い志を持ち、政権に左右されず、純粋な奉仕精神で良かれと思われる政策を策定、実施してきたからだと思います。法案を審議して法律として成立させるのは国会議員の仕事ですが、具体的な政策、法案を練り上げるのは、専門知識を持った官僚の仕事であることが多いのです。

この官僚組織がしっかりしていれば、仮に組織のトップである大臣の座に、不勉強な政治家、タレント議員、二世議員など「これから勉強させていただきます」といった人物が座ったとしても、事務次官以下はなんら影響を受けることなく、黙々と高度な業務を遂行していきます。政権が変わっても大丈夫です。かつて社会党の村山富市総理大臣が生まれたときにも、政権交代で民主党政権が続いたときにも、官僚は動じることなく、国民のために働き続けました。

官僚たちにとって、日本を実際に動かしているのは自分たち官僚テクノクラートであり、政治家センセイはお飾りにすぎない、という自負があったからでしょう。これは良くも悪くも日本の独自の国のあり方であり、三権分立の理屈から行くと、試験に合格しただけで公務員になった官僚よりも、国民に選挙で選ばれた政治家のほうが上になって統治すべきということになります。それが政治主導という名目になったのでしょう。

しかしながら実態は、政治家は当選するために「地盤、看板、カバン」の3つの要素が必要であると言われ(地盤とは親が選挙区で元議員だとか地元の有力者であること、看板とは自民党公認などのこと、カバンとは選挙資金のこと)、必ずしも頭脳明晰である必要はないのです。とてもじゃないが優秀な頭脳で入省し、専門の行政現場で切磋琢磨してきた官僚テクノクラートとは、行政能力では太刀打ち出来ないのです。

官僚がなぜ高い志と、純粋な奉仕精神を持っているかというと、大学を卒業してそのまま国家公務員として中立公正に仕事を始めるからだと思います。財務省などになると、同期入省の職員メンバーが、入省してみたら東京大学時代の同窓生だった、ということも珍しくなく、良くも悪くも大学時代の延長のような面もあり、それが彼らの純粋な職業倫理と志を維持するのに一役買っている気もします。大学生のように生真面目に、国民への奉仕を考え続けることが可能だったのです。

もちろん厳しい出世競争も、入省すると同時に始まります。横一列で入省した同期の中から、誰が最も優秀なトップで、自分は何番目かということも、暗黙の了解でわかると言います。昇級試験などもあり、一生を続けて受験勉強の連続のような側面もあるかもしれません。上に行くほどポストの数は減っていき、参事官などの役職に絞られ、最終的には官僚のトップである事務次官一人になれれば出世競争の勝利です。事務次官になるのは実力、実績がトップの職員一人であり、二番目の職員は、自分は事務次官になれないと、あきらめて天下り先へ転職したり出向したりします。ポストの数が減るたびに天下り先や出向先が必要になります。

僕が強調しておきたいのが、官僚たちの出世レースや人事の決定が、実力主義と実績主義で極めてフェアに行われてきたということです。政権から行政の方針について、担当の大臣を経由して事務次官が大雑把な指示を受け、それを実行に移して行くというのは正しいことですが、あくまでその時の大臣から指示を受けるだけで、日々の業務についてまで政権に振り回されることはありませんでした。

大きな変革があったのは、安倍政権で平成26年4月11日に「国家公務員法等の一部を改正する法律案」が成立した時で、霞が関には大きな動揺が走りました。平成26年5月30日、「内閣人事局」という恐ろしい組織が設置されたからです。これは各省庁の事務次官以下幹部職員、計600人の人事権を、首相官邸に集中させ、首相の独断で官僚の上層部の人事を左右できるというもので、戦後依頼の大激変です。

それまで国民のことだけを考えて、真面目にコツコツと公正中立な仕事をし、実績を積み上げていけば出世できる、と考えていた官僚テクノクラートたちの倫理観さえ覆してしまいます。いくら実力や実績を積み上げても、安倍首相に嫌われたら出世できない。常に安倍首相の顔色を伺わなければならない。国民目線ではやって行けず、官邸の意向に従うべくビクビクしながら、安倍首相の喜ぶ仕事をしなければ出世できないと考えるようになります。実際に上司である事務次官や参事官は、官邸に指名された人物がなっているのだから、その指示に従わなければならない。こうして国民目線から官邸目線に、役所の倫理が変わりました。

安倍政権はこのようにして、国中の省庁を一手にコントロールする仕組みを作りました。今までの自民党内閣がしてきたように、優秀な官僚を呼び寄せ、頭脳としてレクチャーを受けて勉強する、ということもできなくなります。もはや官僚そのものが、今までのように独立した現場からの意見として、優秀な頭脳で政治家にアドバイスをする立場ではありません。彼らは安倍首相の選んだ安倍首相のイエスマンに成り下がってしまったわけです。まさに誰一人注意してくれる人のいない「裸の王様」の総理大臣が生まれてしまいました。

坂井万利代さんが「古舘伊知郎さんの降板の本当の理由」という記事の中で書いてくれた、官邸の導入した役人の「成績表のようなもの」というのは、たぶんこの内閣人事局の活動のことだと思われます。マスコミからあらゆる官庁の細部まで、自分の権限のもとに掌握することに成功した安倍首相は、さぞかし気分良く仕事をしていることでしょう。でもお坊ちゃま大学卒で二世議員である安倍首相が、裸の王様となって好き勝手に日本を動かしていくことは、非常に危険な兆候だと思います。

貴重なブレーンをすべて骨抜きにし、イエスマンに替えてしまった権力。誰も止めることのできない権力。最高裁判所はもちろん内閣法制局長官までイエスマンを配置し、司法にさえ縛られない権力。もし仮にこの権力が暴走しはじめたら日本はファシズムを許し、独裁国家になることは間違いないと思われます。気がついたときは手遅れ、ということもあります。

トランプを大統領に選んでしまったのがアメリカ国民なら、安倍晋三を総理に選んだのは日本国民です。私たちは、もう少し賢くあるべきだったと思います。

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