集団的自衛権の強行は歴史に禍根を残す
僕は日本が集団的自衛権を持っていることを否定しないし、それを行使することも順当だと考えている立場の人間です。そのことは以前のブログ、「持っているけど使えない集団的自衛権って」に書いたので割愛します。ただ今回の閣議決定による「憲法解釈の変更」を手段とした安倍首相のやり方については、断じて容認できるものではなく、あえて強い言葉で個人的な立場の主張を述べさせて頂きます。
私の言いたいことはすべて6月27日の村上誠一郎代議士が外国特派員協会で行った素晴らしく的確な会見で、すべて言い尽くされているので、それを読んでいただくのが一番かと思われます。ぜひこちらのリンクから記事をお読み下さい。簡単に言うと、法の支配、三権分立、といった現代の民主主義を支える根底がくつがえされる。高校の教科書でも習った政治がまっとうであるべき最低限守るべき基本中の基本がひっくり返ってしまえば、これはもはやファシズムである。ということ。
法治主義をとる立憲国家(今では世界中がそうである)では、憲法は何のためにあるのか。それは政治家の暴走を止めるための歯止めとして存在するのである。王様といえども憲法には従わなくてはいけない。それが法治国家である。それなのに今回は下位である行政府が、最高権威である憲法に対して「解釈の変更」という無謀な大鉈を振るったのである。あきらかに禁じ手である。これが前例として許されるなら、ころころ変わるその時々の政権は、自分に都合良く憲法さえも解釈を変えて自由自在にあてはめることができるようになる。もうむちゃくちゃだ。
確かに現行の憲法は全てが満点というわけではなく、とりわけ第9条については、全くの丸腰で自国と世界の平和を守るべし、といった現実離れしたものであり、問題が指摘されてきた。歴代内閣は「しぶしぶ」この条項を曲解しつつ、現実社会に会わせてきた。しかし「しぶしぶ」曲解するのと「堂々と」曲解するのではまったく意味合いが違うのではないだろうか。
この完全平和憲法条項第9条については、さまざまな議論がある。そもそも進駐軍に押し付けられたもので日本人の自主憲法ではないではないか、とか武力無しで自衛などできるわけがない、とかもっともな議論だ。余談かもしれないが僕の個人的な憲法に対する考え方を書いておこう。
確かにGHQによって文言が練られた押しつけ憲法である。だが当時の連合国軍(UNITED NATION)は若く、理想に燃えていた。それが国連(UNITED NATION)につながったくらいだ。そのGHQの極東コマンダージェネラル、ダグラス・マッカーサーも執務室にサミュエル・ウルマンの詩「青春の詩」を飾り、「青春とは心の状態である」という言葉を愛した。焼け野原から理想の平和国家の建設に際して、全く新しい理想を掲げ、今までにない新しい形の平和国家という実験を試みた。
残念ながらこの第9条の実験は、あくまで理想を描いた実験であり、現実的ではなかった。まさしくジョン・レノンが名曲「イマジン」の中で描いた、「武器のない世界を想像してみよう」。国際安全保障論を横においておくならば、僕はこの言葉が好きである。
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閣議決定というのが、どんなものなんだろう。
憲法の解釈を変える余地は、内閣にはないんだろうか。
条文があいまいだから、今まである解釈でやってきたが行き詰った、別な解釈で行きたい。
そういう余地はあるのかないのか。
もしそれを許せば、大変なことになるのか、ならないのか。
大変だという人は、内閣が司法や立法に優越することになると言ってるようだ。
本当にそうなのか?
解釈を変えた影響が、予算や法に現れるまでに、国会があり、司法がある。それが三権分立であり、憲法の縛りなんじゃないかしらん。ここが健全なら、ファシズムというのは酷すぎる。ファシズムは中国共産党に使う言葉であって、自由選挙が行われてる民主国家に使うべきではないと思う。
しぶしぶ曲解と、堂々曲解の意味合いが違うとは、どうなんだろう。筋の通る話なんだろうか。
私は、それは感情論だと思う。
村上さんの話に、内閣法制局は憲法の番人だとある。そうなのか? 法律顧問というのはわかる。だけど憲法の番人を頼んだ覚えはないんだけど。
じせんさん
厳密に言えば違憲立法審査権というのが最高裁判所にはあるから最高裁がノーと言えば法制化されない、つまり三権分立は生きているわけですね。
また憲法はそもそも曲解すべきではない。しぶしぶであろうと堂々とであろうと。
それは原則論だが、そこであえて僕がファシズムという言葉を使ったのは、安倍さんの中に「決めるのは私だ」発言のように、どこか奢りが出始めているのではないか。安定多数票を背景に、憲法を軽視する感覚が芽生え始めているのではないかと危惧したからです。
もちろんこれが杞憂であってくれれば、それにこしたことはないのだけれどもね。
まずは「片務軍事同盟」であり「日本の施政権下にある場所」でしか機能しない日米安保条約をどう改定するか見たい。
公海上でアメリカの艦船を防衛するには大幅な改定が必要。
憲法解釈の内閣による変更は、今回は「集団的自衛権」でしたが、少し想像力がある人なら「基本的人権」にも及ぶ可能性を思うことが可能でしょう。
自民党の憲法改正案に「公共の必要性」があれば、制約できると読める条文があって袋だたきにあいました。
しかし「解釈の変更」をするなら、憲法12条13条も「公共の福祉」の解釈をいじれるわけで、究極的に福祉とは治安秩序の維持だとすれば、特定秘密保護法案の「強力版」も可能なわけです。
そもそも内閣が「自ら変更した解釈に従って改正法案を提出する」という手順はおかしい。
本来、内閣が何かをやりたいと思ったら関連する法律の改正案を、まず内閣法制局で憲法や他の法律と矛盾しないかを精査した上で国会に示し、審議のうえ、議決する。
しかし議決しても司法が「違憲だ」「他の上位にある法律に違反して無効だ」といえば、最初に戻ってやり直しです。
面倒で迂遠な手続きですが、民主主義とは「意思決定手続きの方法論」ですから、仕方がありません。
当然ながら、憲法との矛盾が解消されないような政策(法律)をどうしても行いたいと思ったら、憲法改正をする。
憲法改正手続きでは同意が得るのが難しいというなら、とりもなおさず全有権者のうち4割強(投票率60%で過半数の得票率を得た国会議員の3分の2という設定)の代表である議員の同意も得られなかったというわけで、憲法を変える必然性・必要性は議員レベルでも認識されなかった、まして有権者さらには国民全体にはまったく説得力がなかったということに他なりません。
「決断し実行する政治」というのも、この民主主義の手続きを通じて初めて正当性=主権者である国民の意思であることが保証されるわけで、いわば民主主義のISO認証またはブランドを名乗ることがゆるされ、その成果を国民は安心して受け取れます。
「合憲」のブランドや「民主主義」認証は、主権者国民(ブランド権者)の「下請け」でしかない国会や内閣が勝手につけては「偽ブランド品」のそしりは免れないでしょう。
最後に今回の集団的自衛権に関する憲法解釈の変更について、中国から「日本は我が国を法治国家ではないというが、同じことをやっているではないか」とつっこまれたら、「日本を普通の国にしてるだけだ」とうそぶけるのでしょうか。
世界で「普通の国」というのは、ヨーロッパの一部の国と日本を除く世界の国々レベルということで、日本のレベルを「上げる」のではなく「下げる」ことだと思います。
亭主さん
僕は学校で初めて民主主義の「三権分立」を習った時、ジャンケンポンのように3すくみの構造になっていて、どれか一つの権力が暴走することができず、なんと合理的なシステムだろうと感動したことを覚えています。
システムが素晴らしくてもうまく稼働していなければ意味がありませんね。日本の民主主義ブランドが偽ブランドにならないように願いたいものです。