沖縄慰霊の日に思う


本日6月23日は、太平洋戦争で沖縄をアメリカ軍が日本軍を殲滅し沖縄占領を完了した日(日本軍の組織的抵抗が終わった日などとという優しいものではない)である。
上陸したアメリカ軍も激しい日本軍沖縄方面軍の抵抗に手を焼いたらしい(総司令官が戦死している)が、しょせんは兵站力の違いはいかんともしがたく、沖縄の日本軍は住民を巻き込んで悲惨な最期を迎えた。
ここで私がゆるしがたいと思うのは、日本軍の司令官牛田中将とその取り巻きである。
牛田司令官は、降伏勧告を無視したあげく、戦闘継続中の70年前の本日に「自決」したらしい。なんと無責任な!
ちゃんと戦闘の終結(降伏)住民の処遇などアメリカ軍と取り決めて、皇宮に向かい拝礼して死ねといいたい。
その後の悲惨な状況をもたらしたのはこいつと、引き継ぎがあったかどうか知らぬが、その他大勢の士官(将・佐官級)であることは疑いない。

たとえば船では、乗客と乗組員に退船命令を出し、待避を確認して、最後に自分が退船するというのが、少なくとも海軍であれ民間船であれ当然のはずだが、旧帝国陸軍ではその常識がなかったようだ。
イタリアで座礁した地中海クルーズ船、韓国セウォル号、中国長江観光船の船長みたいな人々を、その所属会社の社長みたいな意識(民間では安全意識だし、軍では最小損失意識の欠如)の大本営陸軍部のお偉方が率いていたので、沖縄守備軍と住民は大迷惑したと言うことだ。
軍という組織と、部下、住民を「私した」という罪は重い。

「私する」人間は一致した特徴がある。実在の人物であれ理念であれ「権威」に頼るということだ。自分より上位概念の「権威」を想定することで「私する」という事実自ら目隠ししてしまう。
創業者・創業家の権威で会社を、会社の権威で社員と事業を、天皇の権威で日本軍を、民意の権威で政治を、国益の権威で国家を、アーリア人の優越のためドイツ国民とヨーロッパとユダヤ人を「私する」。
わたしは命令にしたがっただけ、忠義のため、会社のため、国益のため、と言って責任を回避する。
これらの「私した」ことによる罪は、時間の経過すなわち歴史によって、軽減したりまして許すことはやってはならない。
厳密に記録して、その罪を永遠に伝えるしか防ぐ手段は無いのである。もういいじゃないかと思っても、ネチネチと過去を責め続けることが是非とも必要である。

さいごに「毒をもって毒を制す(過激な主張をするリーダーに別の過激なリーダーを対峙させる)」的なやり方は、より悪い破滅的結果をもたらすことも覚えておいた方がよいだろう。

memorialday_okinawa

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2 comments on “沖縄慰霊の日に思う
  1. 投稿ありがとうございました。モデレートが遅れてすみませんでした。
    沖縄戦は、旧日本軍上層部の間に潜む最悪の体質が、最もあらわになった戦争であり、多かれ少なかれ旧日本軍全体の致命的な欠陥を露呈しています。旧日本軍というのがどうしてあんな組織になったのか、十分に検討したいと思います。

  2. **のために一生懸命やったことでわたしの罪ではない、いったい何が悪いのか、という言い訳は日本にいれば日常的に、とかく個人主義と言われる欧米人でも当たり前に使います。
    **にはいる一番危険な言葉は「国家」「国益」だと思います。
    現代欧米型民主主義国家を「因数分解」すれば、「自由・平等・博愛」というフランス革命のうたい文句に帰着するでしょう。この三つの言葉の対象は「国家」ではなく人民(People)であることも忘れてはなりません。
    ならば「国家のため」とのたまうならば、あなた!
    あなたは、人民の自由のためにベストを尽くしましたか?平等と博愛はどうですかと聞けば、たぶん答えに窮するでしょう。

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