「イスラム国」をイスラム教徒の目線で分析してみた

イスラム原理主義過激派の武装組織、いわゆる謎の「イスラム国」について3度めのブログです。

「イスラム国」は今までに無かったタイプの国際テロ組織へと変貌する

という前回のブログを書いてから2ヶ月、僕は自分があまりにもイスラム法について無知であることに気がつきました。彼らには彼らの論理があるはずで、それを理解せずして分析などできるわけがありません。当然のことながらこの道に詳しい人物は日本には少ないです。もっとも詳しいと思われる人は、北大生逮捕の時には公安に取り調べを受けてましたが、やはり自らもイスラム国に行ったことがある中田考さん以外に考えられません。イスラム法についての知識のソースを彼に求めることにしました。中田考2

(元同志社大学高等研究教育機構客員教授 中田考さん)

で、イキナリ話題がそれて恐縮ですが、分析をする前に例の情報ソースについてもう一度だけ確認しておきます。なぜならこの分析は朝日新聞に掲載されたイスラム法学者の中田考さんの解説をベースにしているからです。おまけに中田考さんという人が「イスラム国」に片足つっこんでるような人でして、失礼ながら風体からしても思想的にも、イスラム教徒以外にはすんなり受け入れ難いかも知れません。ですから情報ソースとの付き合い方についてまず整理をしておかなければ、みなさんもスッキリした気持ちで続きを読む気になれないでしょう。

幸いなことに朝日新聞については、池内恵(さとし)東京大学准教授が、実に明快にまとめてくれているので、それをそのまま引用します。このところの騒ぎでメディアとの付き合い方についてもスッキリしない気分だった方も、これで一気に解決です。

まず、私は、世界にはこのような多様な考え方があるということを知ることは大切だと思います。そもそも新聞とは、その厳しい制約条件から、中立的でも、客観的でも、卓越的でもあり得ないものである以上、様々な意見が、さほど正確なフィルターなしに載ってしまっても、やむを得ないものだと思います。

重要なのは、「朝日に載ったから正しい」などと思わないことです(その逆に「朝日に載ったから間違い」と思う必要もありません)。朝日や岩波に載った、ということのみをとって、その意見が真であるとか権威的であるとか、特に知識業界に身を置く人たちが思う状況がかつてありました。朝日に載った意見に反対すると学界で干されて大学で就職できなくなってマスコミ全般から干される、という恐怖を抱かざるを得ないような自縄自縛の状況がありました。しかし、それは過去のものです(と思いますが、そうではない業界がまだあるということも伝え聞いてはおりますがここでは等閑視しておきます)。朝日新聞を批判したり、あからさまに意見が違ったりすると朝日新聞の紙面に載らなくなることは確かですが、長い話を短くすると、一私企業のやることなので、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

ですので、いろんな意見がこの世にはあるんだなーと思いつつ、どこがおかしいか、自分の頭で考えられるようになればいいのではないかと思います。もちろん「おかしい」というのは特定の基準を定めたうえで言えることです。この世の中にある基準は一つではありません。

そして一番重要なのは、複数の基準が世界には存在することを認めたうえで、自分が属す社会・政治共同体ではどの基準が適用されるべきなのか、よく考えることです。それは自分が生きていく社会を選び、その社会を自分も一員としてどう形作っていくかを主体的に考えて、発言し、行動していくことの、第一歩です。自分が属すと決めた(あるいは生まれ落ちて育ってそこ以外に行く場所がない)社会の基準を、さらに磨いていく営為に参加することで、われわれは本当の意味で社会の一員となるのです。(自由主義者の「イスラーム国」風姿花伝より引用

世の中をおもいっきり単純化して「自由主義価値観」と「イスラム法」の二つだということにして考えてみましょう。「自由主義価値観」の方はそのまんまです。「民主主義」「主権国家」「法治主義」「自由主義」といった我々の慣れ親しんだ社会規範全般です。ところがこれらの社会規範を「イスラム法」に一対一対応で当てはめようとすると、実にとんちんかんなことになります。

そもそも主はアラーであるから民は主ではない。これだけですでに民主主義がピンとこなくなってきますよね。主権国家と言ったところで、主権による国境線という感覚はあまりないようです。イスラム教徒である限り国籍や民族で差別することのない、イスラムの下に平等という原理がが全てなので、主権国家もまたピンとこない感覚でしょう。我々のように選挙をして憲法を制定しなければ始まらない、という感覚の法治主義もまたイスラム教徒にはあまりピンとこない感覚です。法はもともとあるもの、イスラム法、ずばりコーランだからです。

このコーランというもの、これがまた実によく出来ていて思想であり、法律であり、具体的な生活マニュアルでもあるのです。豚を食べてはいけないなど細かく決まっていますが、それらを守っている限り自由であるいう意味で、イスラム教徒は自由主義だといえるのです。彼らは豚を食べる自由がないなどとはこれっぽっちも感じません。むしろ豚のような汚らわしいものを食べずにすんで幸せだと感じているのです。

これほどまでに価値観の異なる「イスラム法」を「自由主義価値観」で分析しようとしても無理というものです。いかにうまくやっていくかだけです。同じ国や地域に同居できるかといえば同居できます。現にイスラム教の国にも異教徒はいますし、欧米諸国にもムスリムは大勢住んでいます。この両方の同居について考えてみましょう。

  • ケースA イスラム世界で異教徒が暮らす場合

イスラム世界で暮らそうと思ったら、原則として必ずイスラム教に改宗しなければならないわけですが、実際にはキリスト教徒やユダヤ教徒は人頭税を払えば、イスラム教徒と同じように接してもらえます。また実際には仕事や観光で訪れる異教徒も多いわけで、「いずれイスラム教に改宗する前提で異教徒のまま数年間暮らすこと」も認められています。観光でイスラム教の国に行ってあたたかく迎え入れられた経験のある人もいるでしょう。つまり原則論として異教徒は排斥するけれど、現実には事実上おおらかに異教徒も受け入れているのです。

  • ケースB 欧米世界でイスラム教徒が暮らす場合

欧米世界では殆どの国が宗教の自由を法律で認めていますから、宗教によって差別されることはありません。日本にモスクを建てることだってできます。でもそれは原則として、であって実際にイスラム教徒が暮らすには様々な不便があります。レストランに行ってもたいてい豚肉が使ってあって、食べるものがない。礼拝所も礼拝の時間も設けられていない。国際会議や世界大会が行われるような大きな会議場や競技場にはムスリム用の礼拝所が作られていますがごく僅かです。つまり原則論として宗教は自由だけど、現実には事実上とても不自由な思いをさせているのです。

中田考さんの説を聞いて、僕には世界各地からイスラム国へ集結するテロリストの動機が解かるような気がしました。上記二つのケースのうち、圧倒的に迫害や抑圧の方が大きいのは、ケースBのように欧米世界で生活するムスリムたちです。そんななかで暮らすうちに心の中に鬱積したものは、いつかはイスラム社会で暮らしたいという執念へと変わっていくでしょう。そんなところにISISが「イスラム国」という旗印を掲げたわけです。

しかも魅力的なプレゼンテーションと、オスマン帝国の再現という理想郷の復活を描き上げて!

僕は欧米の若者が「イスラム国」に感化され集まる理由として、1つに近代資本主義の終焉による価値観の崩壊と時代の閉塞感、それを敏感に感じ取る若者の話を前回に書きました。ティーンエイジャーは特に理由がなくても時に「反体制」に目覚めて行動する時期があるという文学的捉え方も要素として加えました。 背景にはたしかにそれもあると今でも思っています。だけど「イスラム国」を構成しているメインであるイスラム教徒の要素を僕は見落としていたようです。1922年まで続いたオスマン帝国の壮大な歴史。

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世界中で目につかないところで迫害されているムスリムたち、その目の前にぶら下げられたイスラム教徒にとって夢の楽園であるオスマン帝国の復興計画。そして描かれた理想像に引きつけられる若者たち。これこそが本当のストーリーだったのではないでしょうか。だとするとアメリカの空爆などで壊滅するわけがありません。

今回はもっともイスラム教徒よりの視点でブログを書いてみました。おかげで彼らの動機までは解明できた気がします。が、このところ更に勢いを増す残虐性や公開処刑などの恐怖支配をあえて行っている理由が今だにわかりません。許しがたいものがあります。この点については次回のブログで分析したいと思います。僕が「イスラム国」について書いた最初のブログでは「国家でもないのに国と呼ぶな」と不快感を表しました。しかし今、彼らは2020年までに、国家体制を整えると息巻いています。

2020年東京オリンピック。イスラム国の黒い国旗を掲げた選手団の入場が見られるかもしれない。なんてブラック・ジョークはやめておきましょうね。

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6 comments to “「イスラム国」をイスラム教徒の目線で分析してみた”
  1. 独自の通貨も発行するといっていました。
    各宗教宗派の今日の在り様は、教祖・宗祖の生き方を模倣しようとする傾向が強いように思います。

    「イスラーム文化」井筒俊彦著;岩波文庫および「ユダヤvs教キリストvs教イスラム教」一条真也著;だいわ文庫による知識からの想像です。

    ムハンマドは、まあまあのアラブの商人から、アッラーの啓示を天使を通じて受けて、あるべき唯一神への信仰と信仰生活を、ユダヤ教やキリスト教に覆われた世界で、しかし七世紀という、地中海ヨーロッパ・小アジア・アフリカには、ローマ帝国という覇者はなく、群雄割拠の政治権力の空白時期に、ユダヤ教徒という、アッラー信仰を冒涜する、また商売上も対立する人々を攻撃しました。
    言論ではなく文字通り武器を持って戦いそして、危ない目にも遭いましたが、数十回に及ぶ戦闘に勝利して、中東にイスラム教を布教しました。メディナを牛耳っていた部族を、戦闘員は皆殺し女子供は奴隷としたこともあります。

    ムハンマドはある意味「イスラム国」を作り、地中海の覇権を確立します。ヨーロッパ人は「サラセン」と彼らを恐れました。

    この流れと、現代「イスラム国」はなんと似ていることでしょう。

    • なるほど。ムハンマドの時代までさかのぼれば、そもそもイスラムは一つの国だった。あたりまえの話ですが目からうろこです。しかも戦闘によってしか勢力を伸ばせなかった時代でもある。戦国時代みたいなものですよね。
      だからといって当時のやり方を現代という時代に模倣しようとするのは、困ったものですね。織田信長はどんどん人を殺して天下統一した、だから自分も人を殺していいんだ、という理屈みたいに思えてしまいます。

  2. イスラム教徒はブタ肉を食べてはならないという教義はユダヤ教から引き継いだもの。ウロコのない魚は食べれないのも同じ。しかし、飢え死にしそうでも食べてはいけないとは言っていない。イスラム教徒とユダヤ教徒は同じ「絶対・神」を信じています。
    それよりもイスラム教独自の一番厳しい戒律は「棄教」です。「棄教」は死に値します。あるイラン人がキリスト教に改宗しようとしました。それをするとイランに帰ることができないと言っていました。死刑になるからです。私は冗談だろうと思いましたが、現実です。この戒律があるので生まれながらにイスラム教徒である西洋社会でのイスラム教徒は他宗教が良いと思っても改宗できないのです。日本人でイスラムと結婚する場合はイスラムに改宗しなければなりません。離婚しても他宗教に復帰できません。憲法より上位の戒律です。この「不可逆性」と「絶対神」がイスラムの躍進の原理です。イスラム教徒から生まれた子供には宗教の選択権はありません。イスラムの中でもトルコのように緩い戒律の国もあります。
    北大生がイスラム国に行こうとしたとき、中田考氏がまず要求したことはイスラムへの改宗でした。中田氏は彼に再度、イスラムから改宗できないことを説明したか疑問です。

    • 占部様
      補足説明ありがとうございました。
      たしかにアブラハム系宗教は「絶対・神」唯一ですね。
      不可逆性(改宗できない)はイスラム教の最大のポイントで、それゆえ人口比にすると多いのだと思います。

  3. 初詣に神社で柏手を打ち、神父・牧師の前で「神に愛を誓い」しかし簡単に離婚し、葬式では漢文音読の「仏説阿弥陀経」をあげる仏教僧に送ってもらう、日本人の「ゆる~い」宗教観はありがたい。

  4. 今読み返していますが、1991年初版の「イスラーム文化」という井筒俊彦氏の岩波文庫本は、名著です。講義録だということですが、コーランの邦訳も出されておられるだけに、実に深くかつ簡潔にイスラームという、日本人になじみの薄いイスラームという宗教=政治=文化=生活が不可分一体になっている様を解説してくれています。
    是非お読み下さい。

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