延命治療と尊厳死を介護の現場から考える

1月21日の未明に評論家の西部邁さんが亡くなったのは、各界に大きな衝撃をあたえました。自死という形は決して推奨されるものではありませんが、これは若い人の自死とは全く別の観点から、語られるべき問題だと僕は感じました。西部さんは自らの「老い」に向き合い、延命治療と介護を拒否する強い意志を持っておられました。それが今の日本ではかなわず、他に選択肢がなかったのだと思います。

医療従事者は、人の命を救うこと、少しでも長生きさせることが使命ですから、倫理的に殺人幇助とも言える積極的な安楽死は、例え本人が望んでも決して認めることはできないでしょう。日本の法律でも禁じられています。ただ意識が殆どなく重い認知症状態にあり、経管栄養と人工呼吸器を使って生命をつなげる、いわゆる「寝たきり」状態にある人。あるいは回復の見込みがないのに、日々苦痛と闘い続ける人。そういう人に自分がなりたいか、と言われたら誰だって、勘弁して欲しいと願うのじゃないでしょうか。

家族がどう思うかは別にして、僕自身がどうかと訊かれたら、延命治療は絶対にしないで欲しいです。そして速やかに「緩和ケア」(ホスピス)に移行して、痛みがあれば「持続的な鎮痛」を十分に効かし、苦しまずに安らかに最期を迎えたいと思います。どのレベルで治療を中止するかというと非常に微妙なのですが、僕の場合は口から食事が摂れなくなった段階で、胃に穴を開けてチューブで栄養を送る「胃瘻」という治療を受けるのは絶対に拒否します。あれは生きているとは言えません。人工呼吸器も、回復の見込みがある一時的な使用なら付けて頂くけれど、永遠に人工呼吸器が必要な状態なら、すぐに外してもらいたいです。

元気なうちに、こうしてブログで意思表示をしておくことによって、万が一の時に担当の医師が、僕の希望通りにターミナルケアをしてくれることを期待しています。許されるなら、認知症を含む重い要介護状態になった時点で、尊厳のある死を望むくらいです。食事や排泄を他人の世話になり、認知症で人格まで変わってしまったら、僕は生きていたくはありません。もちろんこれは僕の個人的な終活の価値観であり、他の人には押しつけるつもりはありません。自分がどのように死にたいか、は自分がどのように生きたいか、と同様に価値観は様々で、そこに個人の選択肢が存在することが大切だと思うのです。

介護の現場では介護保険に基づき、要介護状態が5段階に分類されます。重度になるとADL(移動、食事、排泄、入浴、整容など基本的な日常動作)が、介護無しではできなくなります。そんな中でも個人の尊厳を守り、自分でできることは自分でやる、自立に向けた介護を理念に、QOL(Quality of Life)の向上を目指すとされています。たしかに立派な理念ですが、実体はどうでしょうか。すべての高齢者が、訪問介護あるいは通所介護などの居宅介護や、施設での介護によって自分の尊厳が保たれていると感じているでしょうか。

口から食事が摂れないので、鼻からチューブを入れて経管栄養をしていた高齢者が、チューブと皮膚が擦れ合うことによって褥瘡をおこし、鼻が化膿してハエがたかっている、などという状態も珍しくありません。寝返りも満足にうてない寝たきりの人の場合は、尾てい骨など下になる部位に褥瘡が起きて、いわゆる床ずれに悩まされることが多いようです。褥瘡がどんなものか想像がつかなければ、靴擦れをおこした時の、痛みを思い起こして下さい。かなりの痛みを伴い、そして治りにくい厄介なものです。「寝たきり」というのは、なぜか日本独特らしくて、海外では「What’s NETAKIRI?」と言われるそうです。

またまた僕自身の個人的な意思の話に戻りますが、寝たきりになり、食事や排泄を他人の手に委ねる状態になったら、僕は尊厳を保てないと思っています。病気で一時的なものであれば受け入れますが、恒久的な全介護は受け入れがたいです。それは自分自身のケースであって、家族にはどんな状態になっても一日でも長生きしてもらいたい、と思っています。非常に矛盾していると自分でも思いますが、家族には長生きを求め、自分自身には尊厳死を求める。でもそれが正直な気持ちです。僕は要介護Ⅲ以上になったら、生きてはいたくないし、ボケたなら認知症などと言わず、脳死と認めて欲しいと思っています。まあ極端な例かも知れませんね。

ADLよりもQOLを、と志高い介護職の人々。要介護状態になっても人間らしく、モチベーションを失わないで長く生き続ける高齢者の人々。僕は心から尊敬します。人間かくあるべきなのだなあ、と学ぶべきところは大きいです。でも尊敬はするけれど、僕自身は将来その方々の真似をする自信がありません。長生きをすることよりも、生きている間にどれだけのことができるか、に重きを置く死生観にとらわれているからかも知れません。QOL(Quality of Life)が大切だというのはその通りだと思いますが、その先にはQOD(Quality of Death)を考えるべき時代に来ているように思うのです。

日本は少子高齢化率が世界でナンバーワンの、突出した超高齢社会です。しかし高齢者対策については、医療のみが先行し、介護福祉は北欧などの先進国に比べて大きく後れを取っています。人間誰もが老化しますが、高齢者になっても元気なうちはいきいきと活動し、天寿が来たら安らかに死を迎えることができる社会でなければなりません。無闇に長生きさせれば良いという話ではありません。医療も長寿化のみにとらわれず、ホスピスをしっかりと取り入れた、患者の希望に添った方向に舵を切るべきです。

安楽死は賛成しませんが、延命治療の拒否、介護の拒否は、個人の尊厳の範疇にあり、自ら選択できるものであるべきだと思います。日本の超高齢社会はますます進み、2060年には65歳以上の人口比率が40パーセントに達します。老化には個人差が大きく、価値観もまた人それぞれで異なります。厚生労働省としては、十分な介護体制を整える必要があるのはもちろんのこと、医療と介護が連携して、QODの観点から、緩和ケアや持続的な鎮痛といった、適切なターミナルケアを誰もが受けられる体制の整備が急がれているのではないでしょうか。

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