多数決は民主主義における必要悪にすぎない

多数決僕はそもそも「多数決」なんて、ろくなものじゃないと思っています。民主主義では議論を煮詰めることが、まず第一義的になすべきことであり、本来の姿です。その上でどうしても意見が分かれてどうにもならない部分に対して、最後の切り札として「多数決」を用いることが許されますが、それは「必要悪」です。ラグビーで延長戦をしてもどうしても同点で差がつかない時に、最終的にコイントスやじゃんけんで勝敗を決めるように、本来の決定方法ではない非常手段として「多数決」が存在するのです。それなのに、最近の日本の政治を見ていると、与野党ともにまるで「多数決=民主主義」だと思い込んでいるような、数の力がすべてであるかのような言動が多く見られ、僕はそれをとても危惧しています。

例えば元維新の党代表の橋下徹さん。大阪都構想で住民投票をやり、僅差で「多数決」で否決されたため、政治家を引退してしまいました。残された橋下さんの支持者の気持ちなど考えようともせず、自分のプライドだけを追求した、わがままな行動だったと思います。これについては、「関西の人に質問。橋下徹って何だったの?」にも書きましたが、世の中を「勝ち負け」でしか考えていない、典型的な多数決信者だったと言えるでしょう。世の中を数が全てだと考えている政治家に、真っ当な政治ができるわけがありません。

先日の衆議院の安保法制委員会での与野党のやりとりが、いかに不毛であったかも、その良い例です。昨年末の衆議院選で17パーセントしか支持票を集められなかった自民党ですが、公明党と組んで数の力で3分の2の議席を勝ち取り、安部首相はそんな数字のマジックの上にあぐらをかいています。余裕で委員会に臨み、首相なのに野党からの質問にヤジを飛ばします(アメリカで大統領が議会にヤジを飛ばすなんて考えられるでしょうか)。野党は野党でどうせ安保法制は「多数決」で通ってしまうのだから、とあきらめの境地になってしまい、ヤケになって首相への個人攻撃で失言を引き出すのに精を出していました。その結果、こどもの喧嘩のようなレベルの低いやりとりに終始してしまいました。本来ならばこの委員会は、安保法制の細かいところをすり合わせをする場です。ところが「多数決」であらかじめ勝ち負けが決まっているもんだから、法案の細部の検討など実質的にまるで行われませんでした。首相の答弁がいかに幼稚でも、「数で優っているから」という理由で、すべて許されてしまいました。

僕が多数決が嫌いなことは「多数決さえなかったら民主主義は素敵なのに」に書きました。でもいささか個人的な感想の域を出ていなかったので、ここでいかに「多数決」が間違った方向に人を誘導する危険なものかを、あらためて考察してみましょう。例えば「科学」と「多数決」は相性が悪いです。有名なガリレオの「天動説」と「地動説」の例を思い出して下さい。科学的に鋭い論理で「地球は回っている」と正論を導き出したガリレオに対して、周囲の庶民の圧倒的多数が「いや、地球は止まっている。動いているのは空のほうだ」と主張し、多数決でガリレオの意見はアカデミーから否決されました。少数の知的な人の意見が、多数の無知な人の意見に負けてしまう。こんな例は珍しくありません。少数の科学者が「原発は危険だ」と言っても、多数の庶民と御用学者(なんと科学者さえも多数決で選ばれてしまうのだ!)が「原発は再稼働すべき」と言えば、そっちの意見の方が通ってしまいます。

「芸術」と「多数決」も相性がよくありません。少数の前衛音楽家が新しい芸術的な作曲をしても、人々の大半はポピュラーな音楽を好み、そして聴きます。アートの世界はポピュリズムと必ずしも相容れないのです。「学問」もそうです。国立大学出身者は数の上では私立大学の出身者より少数です。この両者がもし互いに排斥するような議決を、多数決でするようなことがあったらどうでしょうか。国立大学出身者は全員排斥されてしまいます。「民俗文化」と「都市の主流文化」はどうでしょうか。多数決でどちらかを排斥するようなことがあっては、とんでもないことになってしまいます。沖縄に米軍基地を置いておくことについて、全国レベルで投票したらどうなるでしょうか。沖縄県民の意見は少数意見となってしまいます。

これほどまでに危険な「多数決」であるからこそ、使い方を間違えたら大変です。なので僕は誤解を恐れずに言うなら「愚民による民主主義よりも、多様性を認める独裁主義のほうがマシだ」と発信しています。それなのに肝心の政治家たちが、愚民による民主主義を、ぐいぐいと推し進めているのが現状です。愚衆がなんと言おうと「それでも地球は回っている」と言い続けることが大切です。愚衆民主主義にならないようにするためには、与野党ともに政治家たちが「数の論理」を過大評価しないことが重要だと僕は考えます。

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3 comments to “多数決は民主主義における必要悪にすぎない”
  1. FBに寄せられた多くの意見では、小選挙区比例代表並立制が導入されてから、日本の議会制民主主義はおかしくなったというものです。民主党が政権をとったが惨敗して散り散りになり、日本には二大政党制は根付かなかったことが証明されたと。今では有権者から選択肢を奪い、数字のマジックを起こしているだけだと。
    今一度選挙制度改革法案が必要だと痛切に思いました。

  2. 多くの点で同感なのですが、それでもやはり多数決は民主主義を構成する重要な原理の一つだと思います。

    仰るとおり、科学上の論争を多数決で決めるわけにはいきませんし、基本的人権を侵害するような立法はいくら賛成多数でも無効です。しかし、それ以外の分野では多数決を尊重すべきではないでしょうか。

    例えば、以前の記事にあった「クラシックにするか演歌にするか」は、いかに不本意でも多数決に甘んじるべきです。たまには演歌も良いじゃないですか!

    ただ、「多数決だからお前らが俺らのぶんまでおごれや」などと言われたら、もちろんおごらされる謂われはありませんから拒否するでしょう。これは多数決の欠点というより、その適用範囲の問題です。

    • 奥山さんの仰る通り、多数決は民主主義を構成する重要な原理の一つであることに間違いはありません。

      なぜ僕があえて過激な表現を使って「多数決」を貶めたかというと、国会を始め現代のあらゆる場面で「多数決=民主主義」という短絡的な発想がまかり通っていて、僕はそれに危惧を覚えたからです。

      さらに言えば国民全体に対しても、多数決の正しい運用を求めています。例えばPTAで多忙のため出席率の悪いワーキングマザーに対して、妬みを持った専業主婦のグループによる多数決で、クラス委員を無理やり押し付けられる、といった事例も身近にありました。

      基本的に正しく使われれば、多数決は問題無いと考えています。しかし乱用の危険性があるということを、ブログでは指摘したかったのです。

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