憲法を改正できるまで日本国民は十分成熟しただろうか

憲法

憲法改正論議が現実に視野に入ってきた現在、改正推進派と反対派に分かれています。僕はそのどちらでもありません。あるサイトでは日本国憲法の改正に全体として「賛成」か「反対」かのアンケートをとっていましたが、まったくナンセンスです。どこをどう改正するのか、一つ一つについて熟慮し、あるものは賛成、あるものは反対、と問うべきでしょう。

それでも僕にざっくりと改憲に賛成か反対かと問うなら、ひどく大雑把に言って、僕は憲法改正に賛成なスタンスをとっていると言っていいでしょう。少なくとも日本国憲法を何かの経典のように崇め奉り、神聖にして不可侵なものであるかのように思い込んで、手を加えることに躊躇するのは間違った考え方だと断言します。欧米に比べて、日本人は「法律を自分たちで作った」という意識がかけていると言われています。イギリスではピューリタン革命で、フランスではフランス革命で、市民が自分たちの手で法律を作ったという意識が強いです。一方日本人は法律というものは「お上」のお達しとして、どこからともなく降ってくる感覚で捉えています。この違いが大きいと私は思います。

日本国憲法にしても、GHQが作って日本に押し付けたものですから、自分たちで作ったという感覚は薄いでしょう。ただこの1946年製のマッカーサー憲法が、これがまた幸か不幸か実に良く出来ているのです。当時としてはほとんど非の打ち所のない、感動的なくらいに素晴らしいものでした。「象徴天皇」「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」と完璧な構成であり、大日本帝国憲法をはるかに凌ぐものでした。なまじ日本国憲法が良く出来ていただけに、日本人はたいした不満も持たず、ズルズルと69年の長きにわたって、これを使い続けることになります。借りてきたクルマが大変乗り心地がよく壊れないので、長年使い続けてしまった、といったところでしょうか。

しかし所詮は借り物、おまけに70年も経てば時代に合わない部分も出てきます。第9条のねじまげ解釈の不自然さも、今や国語としてどうよ、というレベルです。また改正するのに衆参両院で3分の2以上とってから国民投票で過半数というのも、厳しすぎる条件で、事実上改正できないじゃないかと思うのです。大変良く出来た日本国憲法だけれども、僕は中学で習った時に、この二点だけ首を傾げました。

ものすごく厳しい規定を強いていて、なかなか憲法の改正が出来ないアメリカであっても1945年の終戦から2010年までの65年間で6回の改正が行われています。おなじ期間に中国9回、韓国9回、オーストラリア3回、イタリア15回、カナダ16回、フランス27回、ドイツ57回とまあ、憲法は改正しながら使うのが世界の常識なのです。日本だけが頑なに69年間も全く改正せずに、憲法は絶対的なものだとして、アンタッチャブルな存在だったのです。

僕は日本国憲法は、前文を暗記するくらい好きで、その精神は受け継いでいくべきだが、微調整は必要だと考えています。では具体的に憲法改正はどのように進むのでしょうか。衆参両院で3分の2以上というハードルは高いので、これは超安定政権の時でもなければ不可能です。安部政権でだけはやってほしくなかったけれど、今度いつ超安定政権の時代がくるか待ちきれないので、やむを得ず安倍さんに突っ切っていただくことになるでしょう。問題は国民投票です。徴兵制など基本的人権が揺らぐような改正案なら、国民が賛成するはずがありませんから、内容は相当に国民投票を意識したものになると思います。

さて、最後の砦、国民投票はどのようなものになるのでしょうか。実は僕はこれが一番心配なのです。日本国民が全員、しっかりとした認識を持ち、的確な判断ができるようなら国民投票もいいでしょう。だけど昨今の投票率の低さをみていると、かなり不安感を覚えざるを得ません。「多数決さえなければ民主主義は素敵だ」に書いたとおり、愚衆による選挙はしばしば恐ろしい結果をまねくからです。それまでに全ての人がこの問題にまっとうに取り組み、投票できるレベルまで関心を高めておいてもらいたい。国民の意識レベルが十分に高まってこそ、国民投票が可能になるのだと思います。

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